山菜に思う のりくらの春の喜び
のりくらで暮らし始めて、
春に「ありがたいなぁ」としみじみ思うこと。
それは、近所でわんさか山菜が採れることです。
旬の貴重な山菜がそこらじゅうにあるというのは、
街に住んでいた時には考えられないことでした。
フキノトウから始まって、コゴミ、行者ニンニク、タラの芽、ウド、コシアブラ……。
そろそろワラビも採り頃かも。
散歩ついでに自分で採ることもあれば、
ご近所からおすそ分け(というには忍びないほどたくさん!)を頂くこともあり、
私にとって、山菜を暮らしに取り入れることは
毎春の大きな楽しみになっています。
何がどう楽しいかと言えば……。
例えば、雪どけすぐの地面からひょっこり顔を出す、
その年初めてのフキノトウと対面した時。
「春だね!冬を越えたね。ようこそ春だね!」と
ようやく冬越ししたことをその子と分かち合いたくなって、
思わず心の中でハイタッチ。
(その後、ちょっくらいただきます!と持ち帰らせてもらう。)
こんな風に、山菜を目にするだけで嬉しいし、
触れて、持ち帰って調理をし、キッチンいっぱいに山菜の香りが広がって……。
その香りを楽しみつつ、滋味深い味わいに舌鼓を打つ。
その一連の過程の中で、
春ならではの上向きなエネルギーをチャージしているような気がします。心にも体にも。
とはいえ、のんびりしているうちに、食べごろを逸してしまうこともしょちゅうなのですが。
そんなのんびり屋の私と違って、
昔から当たり前のように山菜を暮らしに取り入れてきた地元の人たちの様子を拝見すると、
さすが生粋の山菜ハンターは違うなぁと。
山菜を見つけるフットワークの軽さや、山菜を楽しむ料理の多様さに、いつも驚かされます。
それに、
「食べてもらいたくて!」
と山の味をシェアしてくれるその気前の良さにも毎回脱帽なのです。
(のりくらの飲食店や宿泊施設でもお店の味をそれぞれ楽しめるのがまたありがたい!)
こうして改めて考えてみると…
この時期ののりくらには、
春を迎えた素朴な喜びが順繰り順繰りあちこちでめぐっているなぁと思うのです。
とるーとられる、与えるー与えられるといった縦の関係ではなくて
どうぞと差し出し、ありがとうとしみじみ頂き、
頂いたその喜びを自分だけに留めず、また他に渡していく
という横のつながり。
多分、山菜を見つける度、山菜を頂く度、
のりくらの山と土と人とが連なる
山の恵みの輪に入れてもらって、
ゆるやかに手を取り合うような感覚を
じんわりと感じるような気がして嬉しいのかもしれません。
春を迎える度、そのつながりが少しずーつ強まっている感じもあります。
ついつい、こんな自分が……と卑下して、
差し出し下手&受け取り下手になってしまいがちな私も、
少しはシンプルに「どうぞ」と「ありがとう」が
言えるようになってきたかもしれないなぁと思う今日この頃。
どんな自分も大らかに受け容れてくれ、
ゆるやかなつながりを実感させてくれる
こののりくらのゆったりとした環境のもと、
もうちょっと色々と稽古させてもらえたらいいなと
山を見上げ足元を見つめる、のりくら暮らし8回目の春です。