私がここにいる理由は?

積もり積もった雪が少しずつ溶けて春が近づいてきたかな、と思いきや、またまた雪が降り始めた乗鞍高原。
日の出ている時間も長くなってきたり、朝の鳥のさえずりが心なしか賑やかになってきたようで、なんだか辺りがソワソワしてきた今日この頃。
私自身もソワソワしています。

先週、乗鞍の有志の集まりで、勉強会が行われました。
10年前にアメリカから乗鞍に移住してきたセツさんの声掛けで、これからの乗鞍のあり方を考えていくチームミーティングのようなもの。
私はその内容をfacebookのLive中継で見ることができました。
その話し合いの中で、1つのテーマがあり、考えさせられることがありました。

それは、

「I am here because…(私がここにいる理由は…)」

セツさんが大切にされているのは、自分自身の今ある状況や、またこれからの行動・選択に「Why」を突き詰めていくこと。
それを言葉にできると、自分がここにいる目的を発見できたり、自分なりに定義ができて、前にどんどんと進んでいく力になると。
なんだか、すごく核心をついているんじゃないかなと思って。

周りを見回してみても、「why」を言葉にできている人は、軸があって、行動力があって、結果も出している。
そんな風に思ったのです。

私もそうありたいなぁと。
というわけで、今日は先日の勉強会でのテーマについて、自分なりの「Why」を明らかにしてみようと。

私がここ(乗鞍)にいる理由。
じっくり考えてみました。

そして出てきた答えは、、、

「I can restore myself and others(自分を取り戻し、自然にかえれるから 私も誰かも)」

どういうことか、少しずつ言葉にしてみます。

乗鞍との繋がりの種を幼少期の自分に見つけた

遡ること、30云年前。
私の住んでいた千葉県佐倉市の家の近くには、林や田んぼが広がっていました。
幼少期の遊び場というと、もっぱらその林や田んぼまわり。
近所の幼馴染と一緒に林の中に作った秘密基地で遊ぶことが大好きでした。

その林の中では、木々に名前をつけ、幼馴染それぞれお気に入りの木があって、木に話しかけたり、木登り競争をしてみたり、またかくれんぼしたり、ごっこ遊びをしたり、宝物をかくしてみたり。
とにかく、たくさんたくさん遊びました。

大人が入ってこない、子どもだけの遊び場。
誰にも束縛されず、自由に、好きなようにいられる場。
遊びを無限にクリエイトできる場。

そんな場所が大好きでした。
今思うと多分、当時の私にとって、その林はすごく必要で大切な場所だったのだと思います。

なぜかというと、私は小さいころ、束縛とまではいかないけれど、割と囲われて育ってきたのです。
良く言えば大事に、悪く言えば過干渉に育てられたというか。
私は長女なので、母も神経質に育てていた部分があったのかなと思います。
親になった私は今、その時の母の気持ちが分からないでもありません。

そうそう。一番よく覚えているのは、小1の頃。隣町まで友達と自転車で出かける約束をした時のこと。
友達の家では許されたのに、私の母はそれを許してくれませんでした。

「とんでもない!」
「危ないからダメ」
「何があるか分からないから!」

と怒られて、却下されました。
もう、その時は近所中に響き渡るくらいに泣き喚いた記憶があります。

「なんで自由にさせてくれないの?」
「なんで言いなりにならなきゃいいの?」
「なんでいつも我慢しなくちゃいけないの?」

多分、そんな思いがぐるぐる渦巻いていたのだと思います。言えなかったけど(笑)
その時のことは、今では母との笑い話になっています。

当時、いつもいつも家で我慢を強いられていたのか、というと、そういうわけではなかったのですが、、
でも、小さい私は、母のことが大好きだったので、怒られたり行動を縛られるごとに、次第に「我慢しなければ」「母のいうことをちゃんと聞いて、喜ばせなければ」という思いも強化されていったのではないかなと思うのです。

でも、心の底では「自分でない自分」を感じ、「自由でいたい」「ありのままの自分でいたい」という思いも一方で強まっていたのだと思うのですね。
すごく、アンバランスな状態。
本当は自分に正直でいたいけれど、我慢しなければ母から愛されなくなる。
そんな間違った思い込みをしていたのだろうな、と。。。

そんな中で、林は私にとってのオアシス。
誰からも干渉されず、自由にいられて、ありのままの自分が心の底から楽しめる場所。
私が自分を取り戻せる場所、そして自然にかえる場所だったのではないかと。
林ですごす時間をもつことで、心身のバランスをとっていたのかもしれません。

「私の林」を求めていたことに気づかなかった頃

その後、中学入学の際に、引っ越しをして、その林ともお別れすることになりました。

中学時代は部活に励む日々。
そんな中で、私にとって忘れられない小さな成功体験がありました。
それは、クラスの中で割り振られたとある委員会で、定期的に自主制作でイラスト付きの新聞を作ったことでした。
毎回、生活面での呼びかけをその新聞を通してしていたのですが、真面目なお題をいかに興味を持って読んでもらい、面白く伝えるか。頭をひねりながら、友人と熱中して取り組んだことを覚えています。
とにかくそうやって工夫して新聞を作るのが楽しくて楽しくて。
その新聞は、他のクラスで楽しみにしてくれる一部のファンもできて、「イラストと文章でメッセージを伝える」ことの楽しさに気づく、はじめの一歩でした。
今思うと、後にグラフィックデザインを学ぶことにつながる1つのきっかけだったのかなと思います。

さて、その後。
高校に入学して例の林のことはすっかり忘れてしまっていた頃、その林の近くにある林が宅地化される予定だという話を聞きました。
その話を聞いて、焦燥感に似た気持ちを抱いたことを覚えています。
あぁ、あの大好きな林もその内になくなってしまうのではないだろうか、と。

一方で、地元にある程々の進学校に通っていた私は、国立大学への進学を目指し、せっせと勉強を始めます。
我が家は裕福な家庭ではなかったので、国立以外の選択は考えられませんでした。だからもうそれは必死。
別の見方をすると、勉強以外に、心の底から楽しめたり打ち込めるものを見つけられなかったのかもしれません。
もちろん、高校生活の中では友人との関わりなど楽しいこともあったけれど、でもなんだか、自分でない自分というか、ありのままではない自分でいることをどこかで感じていたように思います。

だからこそ、大学進学は私にとって、希望の光でした。
大学に入れば、何かが変わるかもしれない。自分が自分でいられる場所を見つけられるかもしれない。
そんな一縷の望みをもったのですね。
もうそうなると、とにかく勉強するしかなかった。
そして進学先を考える段階で浮かんできたのは、「自然保護を学べる大学へ行きたい!」ということ。
その頃の私のもっぱらの関心事といえば、「自然を守る」とか「環境問題」とか。。。
自分自身が、そういった問題・課題に対して、どんな関わり方ができるだろうと。(←真面目ですねー笑)
というわけで、そういったことが体系的に学べる(という可能性を見つけた)大学を目指して受験をし、晴れて合格。
大学生活が始まりました。

当時、「自然を守りたい」とか「環境問題を学びたい」という思いはグローバルな問題意識をもってのことだったつもりでしたが、、、
その頃は気づかなかったけれど、その問題意識の源には、もしかすると多分

「私にとって心のオアシスだった『自分にかえれる』大切なあの林を大事にしたい」

という、そんな願いに似た気持ちがあったのではないかな、と最近になって気づきました。
地球規模のグローバルな問題・課題に、自分なりにどんな関わり方ができるかということを模索しているつもりでしたが、でも実は、ごくごく個人的な課題に取り組みたかっただけなのかもしれません。

「自分が自分でいられる場所を大切にしたい」
「自分が自然にかえれる場所をもっていたい」

あの頃、そんな自分の本当の思いに気づけなかったなぁ。

自転車の旅で脱皮した私の中のメラメラさん

親元を離れて祖母の家での下宿生活を始めた私は、物理的にも心理的にも親と適度な距離をもつことができ、また同じような志をもった友人に出会え、一気に世界が広がる感覚がありました。

そして、もう1つ、私の中で鍵になっていると思われることがあります。

それは、、、「自転車部」という日本中を自転車で旅するサークルに入ったことでした。
ここから私はますます羽根をのばし始めます。
バイト代はほぼこのサークル活動につぎ込んで、北は北海道、南は鹿児島まで、マウンテンバイクを担いで行って、各地をツーリングしまくりました。

自然豊かな日本の各地を旅することが面白くて。
そんな知らない世界を自転車こぎながら切り開いていく感覚が楽しくて。
そしてまた、気の置けない仲間との旅が本当に心地よくて。

最終的には、仲間との旅では飽き足らず、一人で野宿しながら東北の三陸沖をツーリングしたりもしました。
まさに震災で大ダメージを受けた、あの地域です。
数日間の単独ツーリングでしたが、震災前の美しい三陸沖の景観は、一人旅の郷愁とあいまって、今でも私の脳裏に鮮明に焼き付いています。

話がそれました。

そう。無意識に選択した「自転車部」でしたが、今思うと、あの時のあの出来事が心のどこかでひっかかっていたからこその選択だったのかもしれません。
その出来事とは、、、先に話した「小1の頃に自転車で隣町に行くことを許されなかった」件。
しばらく最近まで、このカラクリに気づかなかったのですが、もう気づいたら笑うしかありませんね。
きっと、私はあの頃の悔しさをずっと握りしめていて、それをいつか晴らそうと企んでいたのかも。

「私は誰の束縛も受けず、自由でいられる」
「私は、自分が自然体でいられる場所を見つけられる」
自転車での旅は、まさにそんな私の企みを晴らし、体現していく、絶好の機会だったのかもしれないと。
当時はそこまで確信犯的に行動していた訳ではないのですが、多分、潜在的にメラメラと燃えるものがあったのでしょう。メラメラさん、お疲れさまでした(笑)それにしても、人生って面白いものです。

本当にやりたいことは?不器用な私、グラフィックデザインの世界へ

さて、そんな風に存分に学生生活を謳歌しつつ、学業の方はというと、、、ぼちぼち。
専門の研究分野は「森林科学」を選択しました。
もう、どこまでも林にこだわる私(笑)。
山に入り、山林を保全・管理するために必要な知識を学びました。

その後、そのまま森林関係の仕事に就くかと思いきや、、、
なぜか私は就職先を考える際に、どんな就職先もしっくりこない自分に気づきます。
この違和感はなんだろう?と思いつつ、とりあえず皆にならって就職活動を始めます。公務員試験を受けたりもしました。
就職超氷河期時代でもありましたが、私自身、モヤモヤが晴れないまま臨むものだから、就職試験もなかなか通らず。

そんな就職活動を通して、「私の本当に本当にやりたい仕事ってなんだろう?」とずっと考えていました。
それで、就職試験にことごとく惨敗しながら考え続けて出てきた答えは「森の大切さ・自然の大切さを伝える仕事がしたい」ということ。
その伝え方として私が行きついたのは、、、なんと「絵本」でした。
なぜなら絵本は、子どもの頃からずっと親しんでいて、その世界観やメッセージ性に、他にはない特別な力と可能性を感じていた為です。
また、中学時代の小さな成功体験(委員会でのイラスト新聞発行)も、私にとっては絵本の世界を自分に近づけて考える理由の一つだったように思います。

でも畑違いの私が、絵本業界にチャレンジするタイミングは今ではないと判断。
「いつか森や自然に関する絵本を製作したい」という思いを温めつつ、なんとか採用してもらった、とある研究センターの研究補助の仕事につきます。

その2年後、私の中にあった絵本への思いを実行に近づける段階に進みました。
コツコツと学費を貯めて、桑沢デザイン研究所という専門学校の夜間部へ入学。
昼間は働きながら、夜にグラフィックデザインを学ぶという生活が始まったのです。

桑沢に通うことを決めた理由は、いくつかあります。
その中でも大きな決め手になったのは、表面的なデザインよりもむしろ、デザインに込める想いや意図を大事にして、丁寧にデザインを組み立てていく、そんなコンセプト設計力を磨いていくことに力を入れていることに魅力を感じたことでした。
また、大好きな絵本作家さん(五味太郎さん)が桑沢出身だったことも理由の一つでした。

入学後は、グラフィックデザインを通して、伝えたいメッセージを効果的に伝えていくための基礎を学び、またその実践をしていきました。
たくさん出される課題の中で、ついには森をテーマにした絵本を作ったことも。
でも、その時点ではまだまだ自分にOKが出せず、もっと伝える技術・デザイン力・編集力を磨いていきたいと思い、卒業後は都内の小さなデザイン事務所でデザイナーとして働き始めたのです。

働き始めてしばらくは、当初の絵本への思いを胸に抱きつつも、与えられる仕事をとにかくこなす毎日。
思うようにデザインが起こせず、悔しい思いもたくさんしました。
でも、がむしゃらに数をこなしていくうちに、昨日より今日、今日より明日と少しずつスキルを磨いていきました。
そんな中で、コンセプトを練り上げながら、デザインという形を表わしていく、そのプロセスの面白さにどんどんハマっていきます。
しかし一方で、次第に仕事に飲み込まれていく自分も感じていました。
納期間近になるとほぼ終電。そして朝は通勤ラッシュにもまれ、余裕のない毎日。次第に心身ともに疲弊していったのです。

結婚するも、「私の林」を見つける模索は続く

もっとデザインの技術を磨きたいという思いもありましたが、そんなタイミングで結婚が決まり、夫の住む静岡県へと引っ越すことになりました。今思うと、都内でのデザインの仕事に疲れきっていて、なんとか状況を変えたいという思いが心のどこかにあったのかもしれません。

夫は、大学時代の自転車部の先輩。彼も自然好きで、自転車の他にも登山が趣味でした。
私が専門学校に通っているときも、また新しくデザインの仕事を始めてからも、休みを見つけて度々登山に連れ出してくれました。
小さな山から大きな山まで。屋久島や鳥海山などなど。結婚してからは、南アルプスを縦走したりもしました。
悩みを抱えているとき、心が疲れているとき、そうでなく元気なときでも、いつでも両手を広げてそこにいてくれる山々に、どれだけ救われたことか。山登りをする度に「今・ここ」にいる自分を感じ、自分を取り戻す感覚がありました。

そうそう。学生時代も山には登っていましたが、その時は実習がメインだったので(枝打ちとか調査とかw)、純粋な山登りの楽しさは夫が教えてくれたようなもの。(この場を借りて、ありがとうm(__)m)

結婚当初は専業主婦の私でしたが、誰も知り合いのいない土地にやって来た私は、次第に寂しさと虚しさとに襲われていきます。
主婦業は嫌いではないのだけれど、、、とウズウズ虫が発動。

「やっぱり仕事がしたい」
「誰かとつながりたい」
また、
「技術を磨いていつか絵本を作りたい」
その思いもまだまだ持ち続けていました。

そんなこんなで、就職先を探し始めたところ、静岡市内にあるデザイン事務所の仕事を見つけることができ、採用されました。
そこは女性だけの従業員からなる小さなデザイン事務所。
同性の知り合いを作り、深めていくことができる喜びと、仕事ができる喜びで、毎日が充実し始めると同時に、またコツコツとデザインの経験を積み重ね始めました。夫が静岡から沼津に転勤になってからも、しぶとく電車で通い続けました。

母になり、新しい世界を知る tasukiと共にあった乳幼児期の子育て

その数年後、今度は子どもを授かりました。
育児休暇をとるという選択もありましたが、職場が自宅から離れすぎていることと、万が一のときに頼れる人がいないこと、また私自身も乳幼児期に子どもとの時間をしっかり取りたいという思いから、一旦職を離れることを決めました。
その後はどっぷりと育児の世界につかります。

でも、周りに知り合いも、頼れる人もいない環境での子育ては本当に孤独でした。
日々、命を守り、育てていくことの責任感は半端なく、ある意味苦しかった。
もちろん子どもは愛おしいし、私は望んで子育てしている。
子どもと一緒にいられることは幸せだなって思っている。
でも、、、とまた私のウズウズ虫が。

「社会とつながりたい」
「仲間をつくりたい」
「とにかく育児家事以外に何かしたい!」

そんな思いから、何かそのきっかけがつかめたら……というほんの一縷の望みをもって、育児ブログを始めました。
日々の子どもとのあれこれを綴るだけの日記ブログ。
誰も読んでくれないよなぁと思いつつ、とにかく書き続けたのです。
そうしたところ、自分の気づいたこと・感じたこと言葉にすることで、ちょっとずつスッキリしていく自分がいました。

その頃は気づかなかったけれど、あの育児ブログは、その日の自分に対して、メッセージを送っていたんだろうなと今になって思います。
今日この日を無事に過ごせたことに対して、

「Good Job!よくやったね!」

って。。。
そうでもしないと、誰も労ってくれませんでしたから(笑)
それとまた、ブログを書く時間は、妻でも母でもない「私が私でいられる」の時間だったのだろうなと。

しかし、そんな独り言ブログを見てくれている人がいたという衝撃の事実が後に判明!
そのブログをしばらく続けていたら、ある人から声をかけられたのです。

その人とは、、、杉浦希未子ちゃん(通称きみちゃん)。
いつも子どもと遊びに出かける、近所の公園でよく会うママさんだったという更なる衝撃。
それまでは、あいさつ程度しかしたことがなかったけれど、ある時に、

「もしかして、あのブログを書いてる方ですよね?」

みたいな感じで声をかけられたのです。
そこから急展開が始まります。

「一緒にママ向けのフリーペーパーを作りませんか?」
と彼女からのオファーが。
もう、私にしたら、願ってもないオファー。二つ返事で飛びつきました。

きみちゃん自身も旦那さんの転職で沼津で子育てをしているママで、やはり同じように孤独を抱え、かつ何かしたい!とウズウズしていました。
私も、それらのウズウズに加えてこれまで培ったデザインのスキルを活かせる絶好のチャンス。
ウズウズ虫とウズウズ虫の共鳴です(笑)
(しかも彼女の旧姓は「林さん」。潜在的にいつも林を求めていた私は、本当に林さんを引き寄せてしまったという、、、もうこうなるとネタとしか思えない。笑)

彼女と私は、すぐに、「自分達が悩んでいたからこそ、同じように孤独で悩んでいるママの力になれるような、そんなフリーペーパーを作ろう!」と意気投合。
そうしてコンセプトを練り上げて、編集・発行にこぎつけたのが「tasuki」でした。

2012_spring

初版は自費出版でしたが、2号目からはスポンサーを募り、発行部数も徐々に増やしていきました。
制作に携わる仲間も増え、発行を楽しみにしてくれるママさんもじわじわと増えていき、3年間で合計11号を発行。
私はデザインの多くを担うだけでなく、イラストやライティング、そして編集の経験もtasukiを通して積ませてもらいました。
ママに寄り添い、ママと地域が繋がるフリーペーパーであることをモットーに発行を重ねることができ、コンセプトに共感してくれる人や楽しみに読んでくれる人の輪が広がっていったことは、私たちに充実感を与えてくれ、また大きな自信につながりました。
tasuki

きっと、こんなにも熱中して取り組めたというのは、tasukiに携わる時間が私にとって「私が私でいられる時間」だったのだろうなと思うのです。

しかし、自身の子ども達が次第に大きくなるにつれ、それぞれ興味や問題意識の持ち方が少しずつ変わってきて、諸々の体制を整理するために休刊を決意。(現在も休刊中です。)

私はというと、tasukiの仕事がきっかけで、少しずつ個人的にデザインの依頼が来るようになり、更には絵本制作の話が舞い降りてきました。
蜂蜜屋さんで扱う商品(菩提樹の蜂蜜と樫の木のスプーンとハーブティーのセット)を紹介するお話を絵本にするというもの。
その名も、「カシノキとボダイジュのおはなし」。
これまた、予想もしていなかった展開でびっくりするやら嬉しいやら。

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伊豆にある蜂蜜屋さんBeehive
http://beehive3883.com/

1つ、自分の夢を叶えた瞬間でした。
もちろん、それが叶えられたことは素直に嬉しかったのです。

ですが、完成した時に感じたのは、私はこれまで絵本を作ることにこだわっていたけれど、tasukiを制作し、発行するときに感じていた喜びと充足感も、なかなかのものだったなと。
むしろ、悩んでいる人に対して、その悩みを解きほぐすようなメッセージを込めて、それを伝えていくこと自体に、私は喜びを感じているんじゃないかなと後に気づいたのです。形は絵本でなくてもよかったのだと。

ついに本当の課題に向き合う時がきた 乗鞍へ移住して

さて、一方で、家庭の中ではいろいろな課題が現れてきました。
詳しくは書きませんが(いつかまた書く時が来るかもしれません)、それぞれの課題に向き合うタイミングが来ていたのだと思います。
私もさんざん悩みましたし、解決方法を模索しました。自分を変える努力をしてみたりも。
でも状況は良くならいばかりか、どんどん良くない方向へ。。。
そんな中で、弟の佑馬が乗鞍でゲストハウスRaichoを始めることになり、一昨年の秋、宿を始めたばかりの頃に、家族で乗鞍を訪れました。
その時の感動と言ったら。
紅葉真っ盛りだったこともあるのですが、あまりの景色の雄大さ、美しさに息をのむほど。
Raichoの温泉の、この上ない気持ちよさもありました。
乗鞍滞在の全ての経験から、心地よさが体中に広がっていくのを感じたのです。
色々なことに悩んでいた時でしたが、束の間ホッとすることができ、とにかく「今・ここ」を味わい尽くす時間をもちました。

その時はうまく言葉に表せなかったけれど、やはり乗鞍での滞在は「自分を取り戻す時間・自然にかえる時間」だったのだと思います。
それは、幼少期から私がずっとずっと求めてきたものだったのかもしれません。
それが乗鞍にあったし、乗鞍の自然がそれを思い出させてくれました。

家に帰ってからも、乗鞍で感じた心地よさは忘れられませんでした。
そして、自分の感情を1つの行動選択の指針にしてみてもいいのでは?
そんな思いが徐々に強くなっていくのを感じました。

そして行きついたのは、家族も、人としてのあり方も、あるべき形はない。十人十色でいい。
そう思うようになったのです。
また、宿の方も開業したばかりで、お手伝いを必要としているというタイミングも重なり、思い切って夫と一旦離れて、乗鞍に息子と住んでみるということを決断しました。

私が乗鞍にいる理由を掘り当てて

そんな流れで乗鞍へ移住してから、そろそろ一年が経とうとしています。
「自分を取り戻す時間・自分が自然にかえる時間」をここ乗鞍で味わいながら過ごすことで、私も息子も心身ともに安定して健やかに暮らしています。離れて暮らす夫はというと、一緒に暮らしていた時にはできなかったことにチャレンジしたり、自身の課題に向き合っている様子が見え、今こうして離れて暮らす時間は、私たち家族にとって必要で大切な時間なのだと思うようになりました。
これからどういう形になるかはまだ分からないけれど、どんな形になっても大丈夫という、そんな確信ももてるようになったのを実感しています。

そしてまた、今、ここ乗鞍で気づいたり感じていることは、このブログで発信している通りなのですが、改めて今回こうして、「私がここにいる理由」を書き出していて発見したことがあります。
それは、「自分を取り戻す時間・自然にかえる時間」を大切にすること、そしてそれを伝えていくことが、私の人生のテーマなのではないかと。

そうした時間の持ち方は、乗鞍だからこそ味わえるものもあるし、でも乗鞍から帰った後、日常の小さなできごとの中でも味わうことができる。食事のとりかた・呼吸のしかた・身に着けたり選び取る身の回りのものなどから。
でも、それらのベースは、なんと言っても心の在り方によるのだろうと思うのです。
これまで、私の外側にずっとずっと求めていた「自分を取り戻す時間・自然にかえる場所=私の林」は日常のちょっとしたことの中でも「今・ここ」をじっくりと味わい、そうして自分を労わる時間をもつことで、いつでも戻れるのではと。

でも、人は忙しくなったり余裕がなくなると、どうしても心をなくして調和が崩れてしまいがちだから、、、
だからやはり、「意識的に自分を労わる時間をもつ」ということをして、暮らしに調和をもたらすことができるように、そんな気づきのきっかけを私はここで発信していこうと思うのです。
そこにこそ、私が乗鞍にいる理由があるのかなと。

デザイナー時代、他人様のデザイン案件で、コンセプトを練って形にあらわしていく日々でしたが、自分の事はなかなか見えないもので、、、でもようやく、私自身の人生のコンセプトが見えてきました。

自分自身を労わる自分の時間がなかなかとれない人、特に育児&家事&仕事でストレスフルな女性へ。

なぜ女性かというと、、、女性はいのちを生みだし、育む存在だから。
目まぐるしく移り変わる女性のライフステージ。そのどんなステージにいても、日々の心と体のセルフケアを通し、自分自身を労わる時間をもちながら、ご自身のいのちが本来の力を取り戻し、調和のとれたライフスタイルを選択していけるように。
また、ご自身から、パートナーや子どもたち、身近な人へと輝きのあるいのちの輪を広げていくことで、個々が本来もっている才能・力を分かち合える世界が広がっていくように。
そんなビジョンをもって、春以降、ここRaichoでオリジナルのサービス「のりくら養生(仮)」をリリースすべく、準備を始めることにしました。

こんな風に深く自分の存在意義やミッションを考えてみるきっかけをくれたセツさん、ありがとうございます!
大切なものを掘り当てた感覚がじわじわと。ここから、新たなストーリーが始まる気がしています。
もう宣言したからにはやるしかない。

長々とお読みくださった皆様、ありがとうございます。
乗鞍を知るきっかけをくれたRaichoにも、またいつも見守ってくれる家族にも、
またこれまで関わってくれた人や、これまで辿ってきた時間すべてに感謝して。

P.S
「のりくら養生」について、興味をもたれた方は、こちらのフォームにご登録ください。
http://norikurashi.com/contact/
件名に「のりくら養生」とご入力いただければと思います。
詳細が決まり次第、先行してご案内いたします。

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